コックリさん
キューピットさま
——その名前を聞いて、指先がひやりとした人は、たぶん「知っている側」の人間だ。
この話は、今から約五十年ほど前、小学生のあいだで大ブームになった「コックリさん」の記憶である。今回も、自分が実際に体験した実話をもとにお話しする。
ただ、先に言っておく。
この話には、いまだに説明のつかない箇所がある。
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今から約五十年ほど前。コックリさんは、小学校で一大ブームとなり、やがて社会問題にまでなった。
知らない方もいらっしゃると思うので、簡単に説明しておく。
紙に鳥居を描き、「はい」「いいえ」、そして五十音を書き込む。数人で一枚のコインに指をのせ、声をそろえて唱えるのだ。
「コックリさま コックリさま おいでになりましたら はいの方向にお進みください」
——すると。
誰も動かしていないはずのコインが、ひとりでに滑り出す。以後、こちらの問いかけに、ひとつひとつ答えていく。そういう遊びだ。
地方によってやり方や呼び方は違うだろう。ここで話すのは、自分が育った茨城の小さな街でのやり方なので、みなさんの記憶と多少ずれるところもあるかもしれない。
さて。その茨城の小学校で、いつのまにか自分は「コックリさまを呼び出す名人」として、この遊びの中心にいた。
呼べば、必ず出た。
それがどういうことなのか、当時の自分は深く考えもしなかった。
コックリさんの流行に、いい顔をしない先生も当然いた。何人かの生徒が、そういう先生を輪に引き入れて挑戦したことがある。だが、大人が混じると、十円玉はぴくりとも動かなかった。
——おまえたちが動かしているだけだろう。
先生たちは、そう笑っていた。
そこで、ある日の放課後。
先生二人と自分の、三人だけで「公開実験」をやることになったのだ。
ひとりは、五十代の担任、石塚先生(仮名)。もうひとりは、隣のクラスの担任で、三十代の女の先生。仮に、レイコ先生としておこう。
夕方の教室は、いやに静かだった。
帰りそびれたクラスの仲間たちが、机のあいだに身を寄せて、息をのむように見守っている。窓の外はもう、うっすらと暮れかけていた。
紙の上に、三人分の指がそっと重なる。石塚先生の節くれだった指、レイコ先生の細い指、そして自分の指。十円玉は、冷たかった。
「コックリさま コックリさま おいでになりましたら はいの方向にお進みください」
数えきれないほどコックリさまを呼び出してきた自分は、いつもより低い声で、ゆっくりと呼びかける。
これまで先生を交えて失敗してきた仲間たちが、背中のほうで、ごくりと唾をのむのがわかった。
——Tなら、絶対に呼び出す。
そう信じている気配が、うなじにびりびりと伝わってくる。
呼びかけを、三度。四度
やがて
怪訝そうな顔をした先生二人をあざ笑うように——十円玉が、一直線に「はい」へ向かって、するすると滑り出した。
指の下で、金属が生きているように動く。誰かが押しているのではない。むしろ、こちらの指が引きずられているのだ。
教室に、静かなどよめきが走った。
「おい、T。おまえ、動かしただろ」
石塚先生の声が、少しうわずっている。
「そんなことしてないよ」
自分は、正直にそう答えた。
「……私も、動かしていません」
レイコ先生が、押し殺した声で言った。その指先が、かすかに震えているのを、自分は見た。
十円玉は、「はい」の上でぴたりと止まったまま、動かない。まるで、こちらの出方をうかがっているかのように。
「先生、なにか質問はありますか」
自分がうながすと、石塚先生が、探るように口を開いた。
「コックリさんって……霊とか、そういうものじゃ、ないよな」
——問い終わるより早く。
十円玉が、はじかれたように動き出した。五十音のあいだを、迷いもせず、すべっていく。
し ん じ な け れ ば た た る
一文字も、ためらわなかった。
指が、文字から文字へと引きずられていく。まるで、あらかじめ答えが決まっていたかのように。
見ていた女の子たちの表情が、かたく強張った。
レイコ先生の呼吸が、浅くなっていくのがわかる。
続けて、十円玉は動いた。
わ た し は き つ ね
「きつねを呼ぶなんて、Tくんらしいや」
友人たちが、無理に明るく騒ぎ出す。その声が、少しうわずっていた。笑っていないと、こわいのだ。
それからしばらくは、たわいのない質問が続いた。
誰々が誰を好きだとか。クラスでいちばん頭のいい人は誰かとか。芸能人のネタだとか。どうでもいいような問いに、十円玉は律儀に答えてくれた。
相変わらず石塚先生は、信じようとしなかった。腕を組んで、鼻で笑うような顔をしていた。
——だが、経験上、知っていた。
長く呼び出しすぎると、コックリさまは、お帰りにならないことがある。
だから自分は、頃合いを見て、終わりの言葉を唱えた。
「コックリさま コックリさま 鳥居にお帰りください」
——いつもなら、ここで十円玉は、すっと鳥居の印へ戻る。
すなおに、帰っていく。
ところが
その日は、違った。
十円玉は、鳥居に向かわなかった。
ぐるり、ぐるり、と大きく円を描きはじめた。まるで、帰り道を探すふりをしながら、最後にひとことだけ、言い残そうとするように。
そして——ある文字を、ひとつずつ、指しはじめた。
こ の ふ た り ふ り ん
小学生の自分に、その意味がわかるはずもない。
なんのことだろう、と首をかしげた、その瞬間。
石塚先生と、レイコ先生。
二人の顔から、いっせいに色が引いた。
石塚先生の額に、玉のような汗が噴き出したのが、はっきりと見えた。
レイコ先生は、下を向いたまま、石のように押し黙っている。
「……こんなの、ただの遊びだから」
石塚先生は、それだけ言うと、十円玉から指を離した。ハンカチで額をぬぐいながら、よそよそしい笑いを浮かべる。その笑いが、ひどく不自然だった。
指を離された十円玉は、しばらく紙の上をさまよったあと、ようやく、鳥居の位置へ静かに戻っていった。
無事に帰ってくれた。
そのことに、自分は心の底から安堵していた。
そのとき、女の子のひとりが、無邪気に尋ねた。
「先生。ふりんって、なんですか」
石塚先生は、こちらを見なかった。
「……まだ、知らなくていいんだ」
「今日は、これでおわり。みんな、もう帰るんだ」
そう言い捨てると、逃げるように教室を出ていった。
レイコ先生は、石塚先生のあとを追って、教室を出ていった。
一度も、こちらを振り返らなかった。
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それから、しばらくして。
レイコ先生が、遠くの小学校へ転任になったこと。
コックリさんが、学校で全面的に禁止になったこと。
「ふりん」の意味を知ってしまった女子たちが、こっそりと噂をしていること。
——そういう話が、耳に入ってきた。
自分は、それ以来、コックリさんをやっていない。
いまになって、思う。
あの日、石塚先生とレイコ先生は、いったいどういう関係だったのだろう、と
けれど、当時「不倫」という言葉の意味すら知らなかった自分に、あの文字を書けたはずがない。
指が引きずられただけで、自分が動かしていないことは、まぎれもない事実である。
だとすれば——
あの日、二人の秘密を知っていたのは、誰だったのか。
紙の上を、ぐるぐると円を描いていた、あの十円玉。
そして、名人と呼ばれた自分の指を借りて、最後にひとことだけ言い残していった、きつねを名乗る「何者か」
いまでも、ときどき思い出す。
コックリさんは、質問に「答える」遊びだと思っていた。
だが本当は——こちらの知らないことまで、知っている遊びだったのかもしれない。
