「エルニーニョ」という言葉自体は、ニュースで何度も耳にしてきたはずです。しかし、それが人類史上最悪の飢饉(ききん)の引き金になった事実は、あまり知られていません。この記事では、まず1876〜1878年に何が起きたのかを振り返り、そのうえで「いま地球で起きていること」「欧米の研究者の最新の見方」「食糧危機の可能性」、そして見落とされがちな「日本への影響」までを順に整理します。
149年前の「世界大旱魃」――史上最悪の環境災害
1875年から1878年にかけて、アジア・ブラジル・アフリカで同時多発的に大規模な干ばつが発生しました。研究者はこれを「大旱魃(Great Drought/グレート・ドラウト)」と呼び、それが引き起こした世界規模の飢饉を「グローバル・ファミン(世界飢饉)」と総称しています。コロンビア大学ラモント・ドハティ地球観測所のディープティ・シン氏らが2018年に学術誌『Journal of Climate』に発表した研究によれば、この災害による死者は5,000万人を超え、過去150年で最も深刻かつ広範な飢饉だったとされています。
特に被害が集中したのは、インド(デカン高原)、中国北部、ブラジル北東部の3地域でした。インドだけで影響を受けた人口は約5,850万人、超過死亡は推計で560万〜960万人(綿密な人口推計では約820万人)に上ります。中国北部の「丁戊奇荒(ていぼきこう)」と呼ばれる大飢饉では1,000万人近くが亡くなったと伝えられます。歴史家マイク・デイヴィスは著書『Late Victorian Holocausts(後期ヴィクトリア朝の大虐殺)』で、こうした被害が単なる自然災害ではなく、植民地統治下の経済政策によって大幅に増幅されたと指摘しました。
シン氏らの分析では、1877〜78年のエルニーニョは1850年代以降で最も強く、現代の巨大エルニーニョ(1997-98年・2015-16年)をも上回りました。海面水温の異常な高さが16か月も続いたことが、複数の地域で複数シーズンにわたる極端な干ばつを生んだと結論づけています。
なぜ今「再来」が懸念されるのか――2026年の海洋異変
当時の大惨事は、単独のエルニーニョだけで起きたわけではありません。シン氏らの研究は、4つの海洋現象が「最悪の組み合わせ」で重なったことを強調しています。すなわち、(1)直前の冷たい太平洋(1870〜76年)、(2)記録破りのエルニーニョ(1877〜78年)、(3)観測史上最強のインド洋ダイポール現象(1877年)、(4)記録的に温暖な北大西洋(1878年)です。重要なのは、これらが「人為的でない自然変動」から生じたという点です。研究チームは、同様の事象は将来も起こり得て、世界の主要穀倉地帯を同時に干ばつが襲い、食料安全保障を揺るがしかねないと警告しています。
では、2026年の状況はどうでしょうか。下の表は、当時と現在の海洋条件を並べたものです。
| 要素 | 1876〜78年(大旱魃) | 2026年(現在の見立て) |
| 直前の太平洋 | 冷たい状態が続いた(1870〜76年) | 直前までラニーニャ(2025〜26年) |
| エルニーニョ | 記録破り(観測史上最強級) | 発達中(年央以降に高確率) |
| インド洋ダイポール(IOD) | 観測史上最強(1877年) | 注視段階(未確定) |
| 北大西洋・海洋熱波 | 記録的高水温(1878年) | 北太平洋で巨大海洋熱波が発達中 |
特に話題になっているのが、2025年末から北太平洋に形成されている巨大な海洋熱波(マリン・ヒートウェーブ)です。原子力科学者会報(Bulletin of the Atomic Scientists)などの報道によれば、その広がりは約9,000マイル(約1万4,000km)に及び、研究者の間では2014年の「ザ・ブロブ(The Blob)」になぞらえて「ブロブ3.0」とも呼ばれています。この高水温と、赤道太平洋で発達しつつあるエルニーニョが「同時進行」している点が、専門家の警戒を高めているのです。
欧米の気象学者は何を見ているのか――最新の見解
まず押さえておきたいのは、世界の主要気象機関がそろって「エルニーニョの発達」を予測している、という事実です。世界気象機関(WMO)は2026年5月の更新で、6〜8月にエルニーニョが発生する確率を80%、11月まで継続する確率を90%前後以上と見積もりました。米海洋大気庁(NOAA)の気候予測センター(CPC)も「エルニーニョ・ウォッチ」を発表し、確率を以下のように示しています。
| 機関 | 時期 | エルニーニョの確率 |
| WMO(世界気象機関) | 2026年6〜8月 | 80% |
| WMO(世界気象機関) | 11月まで継続 | 約90%以上 |
| NOAA(米・気候予測センター) | 2026年5〜7月 | 82% |
| NOAA(米・気候予測センター) | 2026年12月〜27年2月 | 96% |
ただし、ここで研究者の見解は二つに分かれます。「発生はほぼ確実」という点では一致していますが、「どこまで強くなるか(ピーク強度)」については慎重論が根強いのです。NOAAの公式見解は、ピーク強度には大きな不確実性が残り、どの強度カテゴリーも確率37%を超えていないとしています。つまり、現時点で「スーパー級になる」と断定できる段階ではありません。一方で、欧州中期予報センター(ECMWF)のアンサンブル予測の一部メンバーは、海面水温の偏差が+2℃の「スーパー」基準を超え、+3℃の「極端」域に達する可能性も示しており、これが「記録破りのスーパーエルニーニョ」報道の根拠になっています。
「スーパーエルニーニョ」とは何か――やさしい科学解説
そもそもエルニーニョとは、赤道太平洋の中央〜東部の海面水温(SST)が平年より高くなる現象です。正式にはエルニーニョと、その大気側の変動である南方振動を合わせて「エンソ(ENSO=エルニーニョ・南方振動)」と呼びます。海面水温が平年より約+0.5℃以上ならエルニーニョ、約-0.5℃以下ならラニーニャ、その中間がニュートラル(中立)です。
「スーパーエルニーニョ」は正式な学術用語ではなく、海面水温の偏差がおおむね+2℃(華氏3.6度)以上に達する、極めて強いエルニーニョを指す通称です。過去の代表例は1982-83年、1997-98年、2015-16年で、おおむね10年に一度かそれ以下の頻度でしか起きません。発達の仕組みとしては、太平洋の海面下を東向きに進む暖水の波である「ケルビン波」が、貿易風の弱まりとともに東部の海面水温を押し上げることが知られています。今回はこのケルビン波の規模が大きいことも注目されています。
エルニーニョが恐ろしいのは、太平洋の一角の海水温の変化が、地球規模の気象を「ドミノ倒し」のように連鎖させる点です。これをテレコネクションと呼びます。ある大陸で干ばつ、別の大陸で洪水――こうした異常気象が同時多発し、複数地域の農作物が同時に不作になるリスクをもたらします。1877年の悲劇も、まさにこの連鎖が世界規模で作動した結果でした。
食糧危機は起きるのか――専門家たちの警告
食糧危機を考えるうえで重要な前提があります。世界のカロリーの6割超を、小麦・コメ・トウモロコシ・大豆のわずか4作物が支えているという事実です。供給網が高度に集中しているため、テレコネクションによって複数の産地が同時に不作になると、価格と供給が一気に不安定化します。米国のFEWS NET(飢饉早期警戒システム網)の研究科学者ウェストン・アンダーソン氏は、エルニーニョは世界の農地の少なくとも4分の1で収量に影響を及ぼすと指摘しています。
注意したいのは、影響が一様ではなく「非対称(アシンメトリック)」に現れる点です。オブザーバー研究財団中東(ORF Middle East)のリー・マンテ氏は、アジアやオーストラリアでは乾燥でコメ・小麦・トウモロコシが減産する一方、南北アメリカでは降雨により大豆が増産される傾向がある、と分析しています。地域別の典型的な傾向は次の通りです。
| 地域・作物 | エルニーニョ時の傾向 |
| アジア(コメ・小麦・トウモロコシ) | 乾燥・減産リスク |
| オーストラリア(小麦) | 乾燥・減産リスク |
| 東南アジア(タイ・ベトナムのコメ輸出) | 供給不安・輸出減リスク |
| 南北アメリカ(大豆) | 増産傾向(+2〜5%程度) |
| 中南米(コーヒー) | 減産リスク |
| アフリカの角(エチオピア・スーダン等) | 乾燥・農業シーズンへの打撃 |
さらに2026年は、気候要因に地政学リスクが重なるという難しさがあります。スイスの金融大手UBSのチーフエコノミスト、ポール・ドノバン氏は、2026年の農産物価格にとって最大の脅威はスーパーエルニーニョになり得ると指摘。JPモルガンの気候アドバイザリー責任者で元NOAA主席科学者のサラ・カプニック博士は、中東情勢による肥料(特にペルシャ湾から出荷される窒素肥料)の供給不安と、エルニーニョによる気象ストレスが「二重に重なる」リスクを警告しています。肥料は作付け時の投入タイミングが極めて重要で、一度逃すと収量に直結するためです。
日本への影響――自給率38%という現実
ここで、日本の報道では語られにくい論点に踏み込みます。日本のカロリーベースの食料自給率は2024年度(令和6年度)で38%、4年連続の横ばいです。農林水産省によれば、必要な食料の多くを輸入に頼り、その輸入の約7割が米国・オーストラリア・カナダに集中しています。問題は、この3か国がいずれも、エルニーニョ時に小麦などの作況リスクを抱える地域だという点です。政府は2030年度までに自給率45%を掲げますが、2024年度の伸びはわずかで、引き上げの難しさが浮き彫りになっています。
コメは国内で概ね自給できる一方、小麦・大豆・飼料用トウモロコシは輸入依存度が高く、世界の穀物相場やテレコネクションによる同時不作の影響を受けやすい構造です。1877年と現代の決定的な違いは、現代には国際的な備蓄・輸送網と早期警戒システムがあること。しかし裏を返せば、その供給網が「集中している」ことこそが、現代特有の脆弱性でもあります。価格高騰は、まず輸入小麦を使うパンや麺、飼料を通じた畜産物・卵などの形で家計に波及します。
冷静に線引きすべきこと――「確定した事実」と「煽り」の境界
この種の話題は、しばしば「ゴジラ・エルニーニョ」「150年ぶりの破滅」といった刺激的な見出しで語られます。ここでは事実関係を慎重に切り分けておきます。
つまり、「1877年の再来が確定した」わけではありません。しかし、「発生確率の高いエルニーニョ+進行中の海洋熱波+集中した食料供給網+地政学リスク」という条件がそろいつつあるのも事実です。過度な恐怖もデマも不要ですが、リスクの構図を正しく理解しておく価値は十分にあります。
まとめ――備えるべきは「最悪」ではなく「連鎖」
1876〜78年の世界大旱魃は、自然変動と人為的な政策ミスが重なって5,000万人超の命を奪いました。コロンビア大学の研究チームが「同様の事象は再び起こり得る」と警告した通り、2026年の海洋は当時を思わせる異変を見せています。とはいえ「スーパー級確定」と断じるのは時期尚早で、専門家の本当の警鐘は、単独の災害ではなく複数のリスクが連鎖する構図に向けられています。
自給率38%の日本にとって、これは対岸の火事ではありません。私たちにできるのは、煽り報道に振り回されず、WMOやNOAA、農林水産省などの一次情報を継続的に確認すること。そして、エルニーニョが今後どのカテゴリーに進むのかを、冷静に注視し続けることです。本サイトでも続報を追っていきます。
主な参考・出典
・World Meteorological Organization(WMO)「El Niño/La Niña Update」(2026年5月)
・NOAA Climate Prediction Center「ENSO Diagnostic Discussion」(2026年5月)
・Deepti Singh et al.「Climate and the Global Famine of 1876–78」, Journal of Climate, 2018
・Mike Davis『Late Victorian Holocausts』, 2001
・Bulletin of the Atomic Scientists「How a monster ocean heatwave could fuel a super El Niño」(2026年)
・CNBC, J.P. Morgan(サラ・カプニック博士), ORF Middle East(リー・マンテ氏), New Food Magazine(クリス・エリオット教授), NASA/FEWS NET(ウェストン・アンダーソン氏)
・農林水産省「令和6年度 食料自給率について」(2025年10月公表)