気候変動、紛争、エネルギー価格の高騰、そして肥料不足。これらは別々の問題ではなく、いま「同時に」起きている。専門家はこれを複合危機(ポリクライシス)と呼ぶ。2026年、ホルムズ海峡の機能停止を引き金に、その連鎖は現実のものとなった。そして日本は——世界第2位の食料純輸入国でありながら、この危機にほとんど注目していない。本稿では国際機関と専門家の発信をもとに、「日本人が餓える」可能性を冷静に検証する。
🟢 確定した事実(公的機関・一次データ)/🟡 報道・専門家の主張(出典あり、評価は分かれうる)/🔵 編集部の分析(解釈・意見)
いま世界で起きている「複合危機(ポリクライシス)」とは
複合危機(ポリクライシス)とは、気候・食料・エネルギー・紛争・経済といった複数の危機が互いに影響を強め合い、単独では起こりえない規模の打撃を生む状態を指す。国際的な農業研究機関CGIARは2026年、紛争がインフラを破壊し供給網を分断するだけでなく、エネルギー費を押し上げ、それが肥料価格に直結し、農業生産コストを上げ、最終的に収量を下げるという連鎖を指摘した。気候の極端化がこれに重なり、経済の不安定さが家計の価格吸収力を奪う。一つひとつは耐えられても、束になると体制を揺るがす——これが複合危機の本質である。
🟢 国連食糧農業機関(FAO)と関連機関の集計では、2024年に世界で約6億7,300万人(人口の約8.2%)が飢餓を経験し、2025年には23億人が中程度〜深刻な食料不安に直面したとされる。紛争と気候ショックが、依然として最大の駆動要因である。
引き金はホルムズ海峡──燃料・肥料・食料が「同時」に動いた
🟢 2026年2月28日に始まった中東情勢の緊迫により、ホルムズ海峡(ストレイト・オブ・ホルムズ)の通航が事実上停止した。UNCTAD(国連貿易開発会議)によれば、海峡の船舶通航は95%以上落ち込み、2月最終週に1日平均103隻あった通航が数週間で一桁にまで激減した。
この海峡が運んでいたものは、燃料だけではない。FAOのトレロ主席エコノミストは、世界の原油の約35%、LNG(液化天然ガス)の約20〜25%、肥料の約30%、硫黄の約45%がここを通っていたと指摘する。つまり「エネルギー」「肥料」「農業の基礎原料」が一本の水路に集中していた。FAOの分析では、月あたり約130万トンの肥料が通航不能となり、しかも陸路の代替がほぼ存在しない。
| 品目 | 2026年に起きたこと |
| 尿素(ナイトロジェン系肥料) | 4月に1トン850ドル超。2月比+約80%で2022年4月以来の高値🟢 |
| 肥料価格指数 | 2026年に30%超の上昇見込み(世界銀行)🟢 |
| 原油・天然ガス | 急騰。アジアのガス価格はおよそ倍に(UNCTAD)🟢 |
| 追加的な飢餓人口 | 最大4,500万人増の恐れ(WFP=国連世界食糧計画)🟡 |
🔵 ここで重要なのは「同時性」だ。肥料は天然ガスを原料にする。だからエネルギー高騰がそのまま肥料高騰になる。肥料が高く・足りなくなれば、農家は施肥を減らすか窒素固定作物に切り替える。その結果、半年〜9か月後に小麦・コメ・トウモロコシの収量が落ち、食料価格が遅れて上がる。さらに原油高はトウモロコシや砂糖をバイオ燃料に回す動機を強め、「食料 対 燃料」の綱引きを激しくする。危機は時間差で、しかし確実に食卓へ降りてくる。
専門家は何を警告しているのか
🟡 FAOのトレロ主席エコノミストは、農家が「二重のコストショック(デュアル・コスト・ショック)」——高い肥料と高い燃料——に同時に直面していると述べ、灌漑から輸送まで農業のバリューチェーン全体が打撃を受けると警告した。FAOの試算では、危機が続けば2026年前半の世界肥料価格は平年比15〜20%高となる。
🟢 そして影響は均等ではない。世界銀行・UNCTAD・FAOがそろって指摘するのは、「価格が高止まりし、所得の低い国・輸入依存度の高い国ほど大きな打撃を受ける」という構造である。FAOのラボルデ氏は、バイオ燃料需要の増加(供給減)と肥料不足(投入減)が重なれば食料価格は上がると述べ、債務を抱える国は「より少なく・より質の低い食料を買わざるをえなくなる」と説明した。実際、ホルムズ海峡封鎖で最も急性的に影響を受ける主要輸入国として、FAOは中国・インド・日本・韓国・EUを名指ししている。
中国は尿素の輸出制限を延長、ロシアは硝酸アンモニウムの輸出許可を一時停止、イランとクウェートは食料の全面輸出禁止に踏み切った。フィリピンは世界で初めて「国家エネルギー非常事態」を宣言。各国の自国優先策が、輸入国の調達をさらに難しくしている。
「買い負け」は本当に起きるのか──事実の確認
ここは慎重に整理したい。「価格が高騰して日本が穀物を買い負けて餓える」という単純な図式には、専門家から明確な異論がある。🔵 当サイトは忖度なしを掲げる以上、自説に都合の悪い反論も正面から扱う。
🟡 三菱総合研究所(MRI)は、「価格が高騰する」ことと「他国に買い負ける」ことは別の話だと指摘する。日本の家計消費に占める穀物の比率はせいぜい1〜2%程度で、小麦やトウモロコシが数倍になっても「買えなくなる」事態は考えにくい。買い負けが実際に起きているのは高級マグロのような希少・高付加価値品の世界であり、1トン数万円で何億トンも取引される穀物では起きていない、という見立てだ。
一方で🟡 PwCやNTTデータ経営研究所は、新興国の経済成長と日本の購買力低下(円安・国力低迷)により、畜産物・魚介類などで日本の「買い負け」リスクが顕在化していると分析する。つまり——
| 論点 | 事実の確認 |
| 穀物の買い負け | 価格上昇では「買えなくなる」可能性は低いとの見方が有力。家計に占める割合が小さく、輸入額全体でも穀物・大豆は1〜1.5%程度 |
| 高付加価値品の買い負け | 畜産物・魚介類では既に顕在化。円安と新興国の需要増で「買い負け」が現実に |
| 物理的な輸入途絶 | これが最大の脅威。お金があっても、シーレーンが断たれれば輸入できない |
🔵 結論として、日本が直面する本当のリスクは「価格による穀物の買い負け」よりも、①円安・国力低下による畜産物・魚介類の買い負け、そして②有事による物理的な輸入途絶の二つにある。価格の話と途絶の話を混同しないこと——これが議論の出発点だ。
台湾有事シナリオ:お金があっても食料が入らない日
🟡 元農林水産官僚でキヤノングローバル戦略研究所の山下一仁研究主幹は、最も厳しいシナリオを提示している。台湾有事などでシーレーン(海上交通路)が破壊され輸入が途絶すれば、食料自給率38%の日本では深刻な食料危機が起こり、小麦も牛肉も輸入できず、輸入穀物に依存する畜産はほぼ壊滅する、という。
山下氏の試算では、1億2,000万人に終戦直後並みの配給(1人1日2合3勺)を行うには玄米で約1,600万トンが必要だが、現在のコメ供給は備蓄を含めても約800万トン程度。「危機が起きて半年後には国民全員が餓死する」と警告する。さらに深刻なのは、食料が途絶するときは石油も肥料原料も同時に途絶し、農業機械・化学肥料・農薬が使えなくなって国内生産すら落ちる点だ。RIETI(経済産業研究所)の研究でも同趣旨の指摘がなされている。
🟡 ただし、ここにも反論はある。防衛研究所の専門家は、台湾有事が起きても南シナ海の迂回や太平洋航路という選択肢があり、運賃は上がるが「すぐに全シーレーンが途絶する」わけではなく、全体として致命傷にはならないとの見方を示す。🔵 とはいえ、保険の引き受け停止や船主の忌避で「事実上の航行停止」が起こりうること、LNG備蓄が約2〜3週間分しかないことを踏まえれば、楽観もできない。CSIS(米戦略国際問題研究所)の2025年7月の台湾封鎖シミュレーションは、封鎖が侵攻より敷居が低いにもかかわらず経済・社会への打撃が極めて深刻になりうると結論づけている。
数字で見る日本の弱点:食料・肥料・エネルギー
🟢 危機への耐性は、結局のところ「平時の数字」に表れる。日本の現状は以下の通りだ。
| 指標 | 数値(最新) |
| 食料自給率(カロリーベース) | 38%(令和6年度/15年連続40%割れ) |
| 穀物自給率 | 約29%(先進国で最低水準) |
| 小麦/大豆/とうもろこし | 17% / 6〜7% / ほぼ0% |
| 肥料自給率(窒素N・りんP・カリK) | ほぼ0%(原料を少数国に依存) |
| 飼料を考慮した実質自給率 | 牛肉9% / 豚肉6% / 鶏肉8% / 鶏卵12% |
| エネルギー自給率 | 約12%(一次エネルギーの約88%を輸入) |
| LNG備蓄 | 約2〜3週間分(石油は国家+民間で約200日分) |
🔵 注目すべきは「肥料自給率ほぼ0%」だ。野菜の自給率は75%とされるが、その種苗の約9割は外国産で、国産種苗に限れば実質自給率は8%程度との指摘もある。つまり日本の「国産」は、輸入された種・肥料・燃料・飼料の上に乗っている。ホルムズ海峡で起きていることが、決して対岸の火事ではない理由がここにある。
なぜ日本は「ほとんど注目していない」のか
🔵 三菱総研は鋭い仮説を立てている。日本人の食卓が「一定程度、満たされている」という現実そのものが、危機感を麻痺させている、と。安くて美味しいものがいつでも手に入る——この日常が続く限り、人々はJAや農林水産省が何をしているかに関心を払う必要がなかった。食料を自由に輸入できるという前提が、議論を不在にしてきた。
🟢 だが状況は動いている。2024年の食料・農業・農村基本法の改正を皮切りに、2026年現在は「食料供給困難事態対策法」が運用され、有事には政府が米・小麦・大豆などの増産や、肥料・飼料の確保を要請できる権限が明確化された。2026年4月には「食料システム法」が本格運用に入り、肥料代・燃料費・人件費といったコスト指標に基づく価格交渉が義務化された。高市首相も自給率の「大幅な引き上げ」に意欲を見せている。
🟡 しかし足元は厳しい。2025年度上半期の農業事業者の倒産は53件で、生産資材高騰を背景に過去30年で最多を記録した。自給率を上げる以前に、生産基盤そのものが崩れつつある。農地と担い手は一度失えば一朝一夕には戻らない。
私たちにできる備え
🔵 個人レベルでできることは限られるが、ゼロではない。専門家の議論から導けるのは次の三点だ。
輸入小麦に依存するパン・パスタは有事に入手困難になる。保存性が高く水と熱で食べられる国産米・乾麺・餅を中心に、家庭備蓄を組み直す。
高付加価値品の買い負けが進む中、消費者が国産品を選び続けることが、生産基盤の維持=最大の安全保障につながる。
むやみに不安を煽るのでも、楽観に逃げるのでもなく、何が本当のリスクかを正確に見極める。それが政策を正しい方向に動かす力になる。
まとめ
🔵 「日本人が餓える」——これは扇情的な見出しに見えるかもしれない。だが2026年のホルムズ海峡封鎖は、燃料・肥料・食料が一本の糸でつながっていることを、現実として突きつけた。価格高騰で穀物を買えなくなる可能性は低い。しかし、円安による高付加価値品の買い負けは既に起き、台湾有事による物理的な輸入途絶という最悪のシナリオでは「お金があっても食料が入らない」事態が現実味を帯びる。
日本の食料安全保障の最後の砦は、農地と担い手、そして「平時からの備蓄」である。世界が複合危機に飲み込まれつつある今、私たちに残された時間は、決して長くない。満たされた食卓の裏側にある脆さから、目をそらすべきではない。
【主な出典】FAO(国連食糧農業機関)/世界銀行/UNCTAD(国連貿易開発会議)/WFP(国連世界食糧計画)/農林水産省「令和6年度食料自給率」/三菱総合研究所/PwC Japan/NTTデータ経営研究所/キヤノングローバル戦略研究所(山下一仁)/RIETI/CSIS/防衛研究所。本記事は各機関の公開情報・報道をもとに編集部が構成したもので、🔵の分析・意見は編集部の見解です。数値は公表時点のものです。