1982年、昭和57年。父親の突然の死によって、20歳の大学生・神原タツヤは新宿のバーで働き始める。ある夜、バーの常連客である謎の女性レイコに品川の高級ホテルへ連れ出され——場違いなロビー、18階の窓に広がる夜景、そしてシャンパンの泡。何も知らなかった青年の、最初の夜が始まる。
昭和の新宿を舞台にした実話ベースの青春物語、第3話
この物語は、昭和57年(1982年)20歳の大学生 神原タツヤ(偽名ですが自分)が父親の死によって金を稼ぐために新宿のバーでバイトを始めたときから始まります。 バーで出会った謎の女性レイコをきっかけに多くの大人たちや女性と関わるようになることで大人へと成長する過程を描いたものです。
実際にあった出来事に多少の演出とエロチックな要素を加味したもので、半分ドキュメンタリー半分フィクションの奇妙な物語となっています。
最後まで読んでいただけたら幸いです。
レイコ
レイコの道案内で、品川にある大きなホテルに着いた。
玄関に横付けすると、ボーイが音もなく近づいてくる。
「おクルマをお預かりします」
キーを渡し、レイコとロビーに入る。天井が、ずっと遠くにあった。
「そこに座っていて」
レイコはフロントへ向かい、自分は、どこまでも腰が沈んでいくようなソファに身を預けた。外国人のビジネスマンや、香水の匂いを残して歩く女たちが、行き交っている。
なぜ自分がここにいるのか。白いTシャツにジーンズ姿の自分は、この場所の空気にまるで馴染まない。まるで、映画のセットに紛れ込んだ通行人だ。
レイコが戻ってきた。
「行きましょう」
これから何が起こるのか、何も知らされないまま、レイコの背中を追う。エレベーターの数字が、ゆっくりと上がっていく。18階。ドアが開くと、彼女は迷いなく廊下を進み、ひとつの部屋の前に立った。
「さぁ、入って」
促されて足を踏み入れる。
まず目に入ったのは、大きなダブルベッドだった。
その瞬間、これから何が始まるのか、ようやく像を結んだ。
『レイコさんと、ここで——』
童貞だった自分は、背中を汗が伝うのを感じた。冷房が効いているのに、身体の芯が熱い。
「ここから見える東京、キレイでしょう。わたし、この眺めが大好きなの」
レイコは窓辺に立ち、夜景に目を細めている。無数の灯りが、彼女の輪郭を淡く縁取っていた。
「緊張しているのね。神原くんは——はじめて?」
問われて、この夜が引き返せない場所まで来ていることを悟った。
「はい。はじめてです」
声が、自分のものでないように上ずった。
「そう」
レイコは静かに微笑んだ。
「わたしが、もらってもいいかしら」
言うより早く、彼女は唇を重ねてきた。
甘い香りが鼻をかすめ、頭の奥で何かがほどけていく。どうしていいかわからず、ただ受けとめる。それだけで、身体の内側に淡い光が灯ったように感じた。
『キスというのは、こんなに——』
言葉にならないまま、感動していた。
「シャワー、浴びようか」
レイコは唇を離すと、浴室へ向かう。
「狭いから、先に使わせてもらうわね」
ひとり残されて、ようやく頭が回りはじめる。田舎の高校で、クラスメイトと交わした軽いキスくらいしか知らない自分に、これから何が待っているのか。期待と不安が、同じ重さで胸を押した。
やがて、バスローブ姿のレイコが出てきた。ゆったりした布の下に、細い身体の線が透けて見える。
交代で浴室に立つ。冷たいシャワーを頭から浴び、逸る気持ちを無理やり鎮めた。匂いを気にして、自分でもおかしいほど念入りに石鹸を使う。
バスローブを羽織って戻ると、レイコはベッドの縁に腰かけていた。膝の上で組まれた指が、ひどく上品だった。
「シャンパンを頼んだの。少し落ち着きましょう。時間は、たっぷりあるから」
『自分より、ひと回り以上も年上の人に、こんなに——』
レイコは、美しかった。それは、教室で見てきたどの女性とも違う種類の美しさだった。
ルームサービスが運ばれてくる。高級シャンパンと、オリーブ、チーズ、サラミ。洒落た皿の上に、非日常が並んでいた。
「では、開けてくれる?」
言われるまま、栓に指をかける。「ポンッ」と威勢のいい音がして、細かな泡の香りが立った。薄いグラスに注ぎ、乾杯する。
「レイコさん。なんで、自分がここにいるのか——正直、よくわからないんです」
思い切って訊いてみた。
「神原くんは、まじめでしょう。一生懸命、お店に馴染もうとしている。マスターも感心していたわ」
金色の液体を、レイコは美味しそうに飲み干す。
「それに——いい匂いがするから」
意外な答えだった。
「匂い、ますか?」
思わず自分の腕を嗅ぐ。
「そうじゃないの。なんて言えばいいのかしら。女を惹きつける、フェロモンみたいなもの。そういう感じ」
彼女は楽しそうだった。
「はじめての相手が、こんなおばさんじゃ、嫌?」
その問いに、迷いはなかった。
「いいえ。レイコさんは、とても綺麗です」
嘘ではない。同じ年頃の女性たちにはない何かが、彼女にはあった。
「キスしましょうか」
そう言って、レイコがまた唇を寄せる。今度は、こちらも少しだけ応えることができた。彼女は手を取り、ベッドへと導いていく。
心臓が、胸の内側を叩き続けている。
その夜、レイコは急がなかった。
まるで、はじめての子どもに文字を教えるように、ひとつひとつ、言葉を添えていく。
「いきなり中心を触ってはだめ。最初は、まわりから。ゆっくり。強くしないで」
彼女の肌はひんやりと冷たく、自分の肌はどこまでも熱かった。指先ひとつ動かすたびに、レイコの呼吸が微かに変わっていく。その変化を、息を殺して追いかけた。
「女の身体は、いきなりは感じないの。やさしく、ゆっくり。肌の熱さも、顔の表情も、声の変わり方も——ぜんぶ、よく見て」
それは愛撫であると同時に、静かな講義だった。彼女は自分の身体をひとつの教科書のように差し出し、そのページの繰り方を、丁寧に教えてくれた。
「そう。上手よ」
囁きが、耳もとで熱を帯びていく。
やがて、乱れていくのはレイコのほうだった。冷静だった声に、少しずつ別の色が混じっていく。整っていた呼吸が浅くなり、白い喉が反り返る。首筋から胸もとへと、淡い桜色が広がっていくのを、自分は不思議なほど落ち着いて見つめていた。
そして、その瞬間が訪れる。
レイコの身体が弓のようにしなり、糸が切れた人形のように、力が抜けていった。荒い呼吸だけが、部屋の静けさに残された。
「——合格よ」
やがて、彼女は掠れた声で言った。
「ものすごく、気持ちがよかった」
女性が果てていく姿を、はじめて見た。それは、人格も理性も、すべてが解き放たれた、生き物の本来の姿そのものに見えた。
「入っていいわ」
いよいよ、という予感に、全身が張りつめる。
「その前に、約束してほしいの」
レイコはベッドサイドに手を伸ばし、小さな四角い包みを取り出した。器用に封を切り、こちらに向き直る。その顔は、さっきまでとは違って、少しだけ厳しかった。
「女性と抱き合うときは、必ず、これをつけること」
彼女は正しいつけ方を、ひとつずつ確かめるように教えた。
「妊娠を防ぐためでもあるし、病気から互いを守るためでもある。かならず、はじめる前に。——約束して」
「はい。約束します」
その真剣さが、この夜をただの享楽ではないものにしていた。彼女は、自分に何かを託そうとしているのだと思った。
レイコが、静かに腕を広げる。
その夜、自分は童貞ではなくなった。
はじめての交わりだというのに、心のどこかは奇妙なほど澄んでいて、レイコの表情の移ろいを、ひとつ残らず記憶に刻もうとしていた。彼女の首筋に広がる桜色。荒くなる息づかい。指先に絡む髪。窓の外に広がる、無数の東京の灯り。
そして、こらえきれない波が、ついに自分を攫っていった。
「——レイコさん」
呼びかけた声は、もう言葉の形をしていなかった。
しばらくの間、ふたりとも動かなかった。乱れた呼吸が、少しずつ、静けさへと戻っていく。
窓の外で、東京の灯りが、変わらず瞬いていた。
さっきよりも、ほんの少しだけ、この街の眺めが好きになった気がした。
次回予告
レイコとのレッスンは、まだ続く。
次章 第4話 レイコのレッスン|女を知らない青年が学んだ夜の作法
お楽しみに。