ちょっと なんだ この心が揺さぶられる感覚
ギレルモ・デル・トロ版『フランケンシュタイン』は、ただ怪物が村人に追われる悲劇でも、雷鳴と稲妻の中で蘇るギミックでもない。
Guillermo del Toroが描き出すのは、「誰かが神になろうとして、この世にあってはならないものを生み出そうとした」という狂気と罪の物語だ。
そして、その創造された存在――フランケンシュタインの怪物(救いを求める〈ぼく〉)は、問い続ける。
「なぜ私は生まれたのか?望んで生まれたわけではないのに」
その問いと共に、バイロン卿の言葉「The heart will break, yet brokenly live on(心は砕ける、だが砕けたまま生き続ける)」が胸に刻まれる。
目次
簡単な筋書き(ネタバレ少なめ)
若き科学者ヴィクター・フランケンシュタインは、愛する者の死を前に「人間は死を超えられるのか」という恐ろしい問いに取りつかれていく。科学への執念と喪失の痛みに駆られた彼は、ついに“死者を蘇らせる禁断の実験”に踏み出し、バラバラの死体から一つの生命を作り上げる。
だが、生まれた“怪物”は、望まれて生まれた存在ではなかった。名前も与えられず、作った本人から恐れられ、拒絶される。
怪物は世界の中で孤独にさまよいながら、「私はなぜ生まれたのか?」「誰も望まなかったなら、なぜ存在するのか?」と問い続ける。
博士は博士で、自らの行為がもたらした罪と向き合うことになる。
彼は“命を作った者”としての責任に追われ、怪物は“望まれずに生まれた者”としての痛みに押しつぶされていく。
やがて二人の運命は、復讐にも愛にも似た、逃れられない関係として絡み合い、物語は避けられない破局へと向かっていく。
なぜこの物語は単なる怪物譚を超えるのか
多くの『フランケンシュタイン』映画が、「博士が怪物を作って、村人が追いかける」構図を踏む中、del Toroの作品はその外枠を抜け出している。
そこでは、博士=創造者が「神に近づきたい」「死者を生き返らせたい」という欲望を抱え、その欲望の先にある倫理・責任・帰属の問題が真正面から問われる。reviewer Roger Ebertは「del Toroの『Frankenstein』は、夢のプロジェクトを実現させた爽快なクーデターだ」と評している。Roger Ebert
怪物側も生まれることを望んでいなかった――「私はなぜ造られたのか」「私はただ望まれなかった存在なのか」という悲しみに満ちている。LWLiesのインタビューでdel Toroが語るように、これは「父と子」の物語でもあり、創造者と被創造者の縦軸の中に“罪”“放棄”“救済”というテーマが浮かび上がってくる。lwlies.com
博士側「神を演じる」欲望の深淵
Victor Frankenstein(演:Oscar Isaac)は、母の死、父の期待、医学界からの退学などを経て、科学が人間の限界を超える道具になると信じてしまった男である。del Toro自身が「これはホラー映画ではなく、感情の物語だ」と語った通り、博士は恐怖を煽る怪物以上に、自らの狂気と向き合わなければならない。バラエティ+1
怪物を作った後、博士はその存在を恐れ、放棄し、追われる立場に転じる。
「創造者が最初に恐怖する者になる」その構図こそが、権力・神・創造というテーマをより痛烈にしている。
怪物側「生まれざる存在」の苦悩
怪物(演:Jacob Elordi)は、「望まれていなかった」存在として生まれ、愛されず、名前を与えられず、社会から隔絶される。その存在が「なぜ私か」「私はただ生きる価値があるのか」を問い続ける様子は、怪物譚という枠を超えて「被造物の自意識」の物語へと変貌する。ArtsFuseのレビューでも「これは人間性とその欠如についての思索的映画だ」と分析されている。The Arts Fuse
そしてバイロンの言葉「心は砕ける、だが砕けたまま生き続ける」が示すのは、怪物の絶え間ない苦痛と、創造者の罪のかたまりを抱えて生きるしかない状態――破壊された心が、それでもなお生き続けるという悲しさである。
美術と映像で語る“呪われた創造”
del Toroらしいゴシックな美術、奏でられるアレクサンドル・デスプラの音楽、実撮影+巧みなプロダクションデザインが、この物語をただの怪奇譚ではなく「巨大な叙事詩」に変える。Le Mondeは「200年前の物語を21世紀に再び息を吹き込んだ」と評している。Le Monde.fr
舞台も北極探検から邸宅の地下実験室まで多層構造。怪物を「巨大な人間」ではなく「異邦者」として映すカメラワーク、暗闇と光のコントラスト、色彩設計。これらが“神を演じた男の影”を視覚的に表現している。
なぜこの映像化が現代に必要だったのか?
今日、テクノロジーやAI、生命操作といった「創造者と被創造物」の関係性がかつてないほど身近になっている。del Toro自身もインタビューで「Frankensteinを通じて、現代の技術狂気を見ている」と語っており、まさにこの映画はその鏡となる。テレグラフ
怪物=人工生命、博士=技術者・企業家という構図に置き換えてみれば、怪物が問いかける「私はなぜ造られた?」という問いは、今を生きる私たち自身にも突き刺さる。そして、創造者側の「私は神になれるか?」という狂気は、技術の暴走や倫理の欠如と重なる。
キャスト・制作一覧
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監督/脚本: Guillermo del Toro
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製作: Guillermo del Toro, J. Miles Dale, Scott Stuber ウィキペディア
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主演: Oscar Isaac(Victor Frankenstein)
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ジェイコブ・エロルディ(怪物)
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Mia Goth(Elizabeth/Claire Frankenstein)
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Christoph Waltz(Heinrich Harlander)
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撮影: Dan Laustsen
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編集: Evan Schiff
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音楽: Alexandre Desplat
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制作会社: Double Dare You, Demilo Films, Bluegrass 7 ウィキペディア+1
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製作予算:約1億2千万ドル ウィキペディア+1
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公開:2025年11月7日(Netflix)/2025年10月17日(劇場) ウィキペディア+1
締めに――心が砕けても、生きるということ
「The heart will break, yet brokenly live on」。博士の傲慢が砕いた心も、怪物の拒絶された心も、砕けたまま生き続ける。Del Toroの『Frankenstein』は、その破片のひとつひとつを誠実に切り取り、我々に提示する。怪物が「なぜ私はここにいる?」と呟くその声は、創造主の問い「私は誰を創ったのか?」と響き合い、技術の時代の新たな神話として刻まれるだろう。
観た後、あなたの心もまた、砕けたまま生きることを覚悟する必要がある。