# 白いTシャツの男 ――ある真夏の帰り道――
もう、何十年も昔の話だ。
私は田舎から上京し、東京・池袋二丁目、倉庫の二階を借りて住んでいた。
昼は大学、夜は新宿でバイト。帰りはいつも終電ギリギリで、乗り遅れた夜は、線路沿いの道をとぼとぼ歩いて帰った。
あれは、真夏の夜のことだった。
今ほど暑くはない時代だったが、それでも都会の夜気は、ねっとりと肌にまとわりつく。暑いものは、暑い。
その日もいつものように、新宿で終電に飛び乗り、池袋で降りた。
北口を出れば、そこはもう繁華街。風営法もまだ曖昧だった時代だから、深夜だろうと客引きの数は減らない。
毎日同じ道を通っていれば、何人かとは自然と顔なじみになる。
「おお 今日は終電か?」
声をかけてきたのは、同世代のニイサンだ。
「誘っても 無駄だよ 金ないから」
「わかってるよ もっと金持ちのじじいをつかまえるさ」
いつもの軽口。そのまま挨拶して立ち去ろうとした、そのときだった。
「おい! 連れを置いてゆくなよ」
……連れ?
「ほら、後ろをついてきた男。おまえの友達だろ」
「いやいや、一人だけど」
「そんなわけあるか。すぐ後ろに、白いTシャツを着た男がいたぞ」
「……そんなわけ、ないだろ」
振り返っても、そこには誰もいない。薄い街灯の光が、無人の歩道を照らしているだけだった。
「あれ? さっきまで、すぐ後ろにいたんだけどな……どこ行ったんだ」
男はきょろきょろとあたりを見回し、腑に落ちない顔をしている。
「やめてくれよ。じゃ、また」
妙な気分を振り払うように、私は家路を急いだ。
当時の池袋は、駅周辺こそ人が多いが、少し離れれば途端に人気が失せる。とりわけ西口は、深夜になると、歩く者の影ひとつ見えなくなる。
ウォークマンのイヤホンで音楽を流しながら、薄暗い道をひとり進む。
――そのときだった。
とん、とん。
いきなり、肩を叩かれた。
不意打ちだったから、さすがに背筋がびくりと跳ねた。
振り向くと、若いお巡りさんが二人、立っていた。
「こんな遅い時間に、何をしている……」
「バイトの帰りですよ」
「身分証は、あるかな」
「ありますよ。学生証も、免許証も」
やましいことなど何もない。免許証を差し出すと、一人のお巡りさんが、妙なことを口にした。
「連れは、どこへ行ったのかな」
……え?
「連れなんて、いませんよ」
その瞬間、私はさっきの客引きの言葉を思い出していた。
――おい! 連れを置いてゆくなよ……
「お巡りさん。……その人、どんな感じでした?」
お巡りさんは、あたりを見回しながら答えた。
「白いTシャツに、ジーパンをはいていたな」
白いTシャツ。
……偶然、だろうか。
もう一人のお巡りさんが、付け加えるように言った。
「そうそう、顔のこっち側に、アザみたいなものがあった。右側だったかな。……しかし、どこへ行ったんだ」
顔の、アザ。
その瞬間、私の脳裏に、ひとりの顔が浮かんだ。
――サトウくんだ。
田舎の、数少ない友人。右の頬に、ほくろのような、小さな痣があった。
「お巡りさん。その痣って……このくらいの、ほくろみたいに見えませんでしたか」
お巡りさんは、はっきりと頷いた。
「そうそう! そんな感じだ。一緒に帰ってきたんだろう?」
私は、静かに言った。
「彼は、先月 田舎で交通事故で亡くなったんですよ」
お巡りさんは、それ以上何も言わず、足早に去っていった。
――後で知ったことだが。
サトウくんの遺影は、白いTシャツ姿だったそうだ。
新宿から池袋まで。
あいつは、あの夜、私のすぐ後ろを、黙って歩いてくれていたのだろうか。
それとも――。
みなさん。
お盆には、墓参りをしましょうね。